• 1984探訪

     三年間暮らした三軒茶屋から、東京の、住んだことのない街へ引っ越した。
     言わずと知れた世田谷の飲み屋激戦区。さんちゃ。ほんとうに、よく呑み、よく食べ、エンゲル係数と体重が増し増しな三年間であった。訪れる際には、おいしいお店をご紹介しますよ。ふふふ♡

     

     三軒茶屋といえば『1Q84』。
     冒頭で青豆さんがヤナーチェックのシンフォニエッタを聴きながら、首都高の非常階段を降りていくシーンが三軒茶屋である。『1Q84』刊行当時は関西に住んでいたのであまりイメージが湧かなかったけれど、物語のあのシーンに暮らす折角の機会なので文庫で読み直し、首都高の階段も探してみた。こういう巡る読書、大好物。しかし、非常階段は作中から想像する以上に剥き出しのハシゴで、ここ降りるの怖過ぎ!!という代物でした。

     

     ついでに、ジョージ・オーウェルの『1984』も並行読みしてみる。
     様々な箇所でリンクを感じたけれど、一番唸ったのはその文体。三人称で進む文に、唐突に主観の文章が混ざる描かれ方だ。とても自然に自分の居所が不明瞭になり、知らぬ間に不安の当事者になる。これは物語の世界だ、と思いながらも、本当に?これって現実では?と判断のつかない奇妙体験を両作で味わった。

     

     ちょうど新国立劇場で上演されている『1984』の舞台も観劇することに。
     強パースの空間と、ガラス一枚で世界の隔たりを演出する舞台装置が巧妙で、小説を読んで感じた自分の居所の不明瞭さを体感できる歪みの二時間。終盤は文章でも忍耐が要ったけど、可視化されるとゲッソリしてしまう迫力でした。(5月中旬までやってますよ!)

     

     再読した『1Q84』は、刊行時よりもずっと楽しく読めた。
     主人公の年齢に近づいたからかと思ったけれど、それよりも、作中でもキーとなる「過去」の存在が大きいと思う。私自身が持つ「過去」がより多くなったことで、おもしろく見えるものが増えたのだろう。
     しかし、『1984』と『1Q84』の主人公たちのように現在や未来をも閉ざしてしまう力のある「過去」ってのは、変幻自在の奇妙なやつで、影法師のように、家政婦は見たのように、ビッグブラザーのように、そこここからヒョッコリ現れてこちらを見ているわけで。時に目映い「思い出」に変身しちゃってさ。敵なの?味方なの?こんなにも身近に生活しているなんて、よくよく考えると不思議。

     

     結末は共通するようで、読後感がまったく違う二冊。分析し始めると切りが無いほど魅力と不思議と比喩で溢れているけれど、ただ単純に体験してみると、そこはもう違う世界かもしれない。

     

    2018.4

  • 「ごちそうさま」を言いたい

    冬の寒い日。私たちは鰻屋へ向かった。
    疲れ果ててもう力が出ない。そういう時は鰻と決めている。鰻さえ摂取できれば全てが元に戻ると信じているのだ。
    店の扉を開けると、小洒落たインストゥルメンタル音楽が耳に飛び込んできた。鰻屋でインストゥルメンタル?不思議に思い視線を上げると、天井近くに取り付けられたテレビが、くるくると舞うスケート選手を映している。そうか。オリンピックか。今年はあまり見れなかったな。と、ぼんやり眺める。我々の前に鰻重と肝吸いが到着したとき、ちょうどテレビには怪我から復活したばかりの羽生選手が現れた。大将も換気扇を止めて演技に集中。緊張が張り詰め無言の店内。つやつやの鰻は、口に含むと誰かが「解散!」と号令を掛けたかのごとく、一斉に広がりとろけ、全身に散らばった。あっちもこっちもクライマックス。弛緩していた瞼に力が漲る。脳がキュっと縮み、再びプワ〜と広がる。おお、今!私の分子と鰻の分子が反応し合っている!これが福岡伸一さんの説く動的平衡なのかしらとかなんとか、考えるような間はなく、ペロっと完食。羽生選手金メダルの瞬間を見ながらの鰻重。耳で、舌で、目で、全身でたのしい数十分でした。ふ〜。衝動的に手を合わる。「ごちそうさま」と、感謝を告げずにはおれません。

     

    鰻と言えば、向田邦子氏の随筆『父の詫び状』の『ごはん』だ。
    向田さんが大切に記憶している食のエピソードをいくつかあげているなかに、お母様と食べた鰻が登場する。短い文章だけれど、何度読んでも嗚咽無しには読み切れない。ぜひ一人でこっそりと読んで頂きたい。『ごはん』を改めて読み返し、鰻とは、食べ終わりの「ごちそうさま」と手を合わせる幸福感こそが醍醐味なのだと気が付いた。これが言いたくて食べるんだ。

     

    季節は流れてすっかり春。東京の桜は例年よりも少しはやく満開に。
    路地を覗いたとき、角を曲がったとき、不意に視界に飛び込む満開の桜のインパクトったら。ほろっと泣いてしまいそうになって、寒い長い冬をがんばった自分に気が付く。よし。鰻、食べ行くか。みんな、冬おつかれさま!

     

    2018.3

  • 10代のころに出会いたかった本

    子供のころ、まったく本を読まなかった。まっっったく!!
    漫画ばかり読んで、両親に与えられた本はことごとく無駄にしたし、国語は苦手だった。世界が一変したのは中学生になって、友人のすすめで『ムーンライト・シャドウ』(吉本ばなな)を読んだこと。出会うころには出会うのだ。

     

    なによりも心惹かれたのは、死について描かれていることだった。それまでの日常で語られることのなかった死についてをこんなにも堂々と、そして迷いながら考えている大人がいるということを知り、私のいる世界がすべてじゃない、大人というのは私が目に見ている姿とは少し違うのかもしれない、と驚愕した。
    幼いころから読書をしている子供たちは、もっと早くこのことに気が付いていたのだろうか。そう思うと、やっぱり子供のころからの読書って大事なのかも、というか、早く気が付けるのは単純にお得。身近な大人が教えてあげられることって、本当に限りがあるから。

     

    「あこがれ」という言葉は大人の為のものだと思う。
    10代の頃を思い返すと「あこがれ」に似た感覚は知っていたけれど、それが「あこがれ」とは結びつけられていなかった。キュンとするときめきだったり、どこか羨ましいような理不尽さだったり。恋愛感情と嫉妬の間は未開拓で、スコンと抜けていた気がする。「私は私だし、これで結構満足なのよ」という土台ができて初めて「あこがれ」は機能するのかもしれない。
    そんなことを『あこがれ』(川上未映子)を読んで思った。
    10代の少年少女が抱く、まだ判然としない、言葉未満の「あこがれ」が描かれている。川上さんの描く少年少女は芯が通っていて、そこにとてもリアリティがある。「あなたはまだ小さかったから覚えていないでしょ」ということを親戚などに言われ、「子供って意外にちゃんと覚えてるもんやで」と心のなかで思うことがよくある。そう、子供って、本当によく覚えているし、わかっているし、考えている。完全にひとりの人間なんだよね。川上さんには常に、そんな少年少女への尊重の念があるのです。『ヘヴン』を読んだ時にも感動したなぁ。
    川上さんの書く10代が大好き。私が10代の頃に出会いたかった。

     

    もう一冊、10代の頃に出会いたかったといえば『ネンレイズム/開かれた食器棚』(山崎ナオコーラ)が浮かぶ。
    ナオコーラさんは「救う人」だ。「救う人」の代表は私の中では槇原敬之で…、っていう例えは余計にわかり難くなりそうだけど、誰かへ向けて開かれた表現をする人に出会うと「このひと、救うなぁ」と心がひらひら震えるのです。だから、ナオコーラさんの作品はナオコーラさんにしか書けない。
    『ネンレイズム』では年齢や性別、『開かれた食器棚』では意思と自然が持つ境界線について、とても優しく柔らかいストーリーに乗せて描かれている。10代のころに出会っていたら、価値観は多様で当然ということや、違った意見を交換し合うことの楽しさ、そして考えを変化させることが悪ではないことに、もっと早く気が付けたろうと思う。(こういうのは、今でも忘れがちなんだけど)

     

    “10代のころに出会いたかった本”という書棚が私の脳内にあって、それはもう叶わない私のなかでは「10代におすすめしたい本」として、せっせと整理している。
    なぜか増えるとうれしいのだよね。

  • 東京の大人

    大学への通学に小さな団地を通っていたことを、ずいぶん長いあいだ忘れていた。
    川の側にある3階建てくらいの、四角い建物。いつ通ってもどこかに黄色い明かりが灯っていて、人の声やテレビの音が漏れている。それを聞く私はいつもひとりで、羨ましくて、夢の途中で、子供で、あの黄色い明かりのとこには大人がいるんだろうなぁと、宙ぶらりんな気持ちを向かい風に飛ばしながら自転車のペダルを漕いだ。
    そのころによく聴いていたのはくるりの『東京』で、「岸田さんは今の方が垢抜けてはるなぁ、でもデビューからずぅっとええ歌詞やなんて、天才や」と、まだきつい関西弁で思う。

    学生の部屋はすべてが適当で、出始めたばかりのLEDライトは目が痛かった。

     

    みんなが主役。そんな話が好きだ。
    群像の物語ではなくて、無数の物語がひとつの土地に集合している話。

     

    『千の扉』(柴崎友香)は、まさにそんな話だ。
    新宿の団地に期限付きで暮らし始めた“千歳”と、同じ団地に住む人々、そして、かつてそこに暮らしていた今はいない人々の物語。時空を越えて場面をさすらう目線は、まるで神様のようで、なるほど、土地の神様ってこんな風に地上を見ていて順番にスポットを当ててくれているのか、そこから見たら人間って土に生えてる感じかもな、植物みたいできれいかもなぁ、と、ぴょこぴょこと風で動く草花を想像した。
    そんなことを考えながらの読書は時間がかかるのに、心地がいい。美味しい珈琲をゆっくり飲むとか、濃厚なチョコレートを前歯で齧るとか、そういう感じに似ていて、自分だけの密かな楽しみを得た大人みたいな気分になった。

     

    柴崎さんの小説の魅力はたくさんあって、本当にたくさんあるのだけれど、その中でも柴崎さんの描く「関西弁の女の子」に会いたくて読む時がある。クールに周囲を観察しながら、ちょっと言い訳めいた関西弁を話す女の子たち。近作では、関西から上京して東京に暮らす話が多い。
    小さな変化をし続ける東京の一瞬の表情を見逃さない彼女たちは、自分が東京に馴染んでゆく移ろいもきちんと見つめることができる。

    「花火大会といえば隅田川でも多摩川でもなく、PLや淀川。海といえば湘南ではなく、須摩。」と『千の扉』の千歳がふたつの街のあいだに浮かぶ様を見て、関西と東京のあいだの、存在しない何処かにいるように生きていた上京したてのころを思い出した。まだまだ重いペダルを漕いでたあのころのこと。

     

    夢の途中に行きたかった“あっち側”に、いつの間にか来ていることには気が付いている。
    思い描く夢はまだまだあるけれど、子供のころのそれとは違う。「途中だ」と思うことが減った。大人ってやつだ。
    黄色い明かりを灯す番がまわってきた。そんな日がくるなんて。
    大人も案外いいものだなんてこと、とうに気が付いているのだけれど、ノスタルジックはやめられない。

  • 気まぐれルーティーン

    2017年の4月から「10年メモ」という本に、一日のできごとや食べたものを書いている。
    見開きが一日ぶんになっていて、そこに10段のメモスペースがある本で、上から2017年2018年2019年…と10年ぶんになっている。要はぜんぶで365ページちょっとある、分厚い本なのです。(分厚みは、京極夏彦で例えると『鉄鼠の檻』くらい)
    来年「去年の今日はなにをしていたのかな〜」と比べることを楽しみに意気込んでいたのだけれど、まぁ毎日なんて書けないのであって、ひどい時にはメールや領収書を見ながら2ヶ月ぶんくらいまとめて書く。それでもわからないから「ふつうの日でした」「特になし」「記憶にない」みたいなページも多々。
    とにかく毎日のルーティーンみたいなものを持つのが苦手で、とにかくとても憧れている。
    村上さん(春樹)がエッセイでよく「通勤電車にも乗らなくていいし、会議も無い、それが作家さ」ということを書かれているけれど、彼はかなり規則正しく生活しているからこういう台詞もかっこがつくのだよね。世間からのバッシングが酷い炎上芸人さんも「もう10年以上まいにち10キロ走ってます」とラジオで言っていて、マジかよと思った。ふつうにすきな芸人さんだけど、それだけでさらに大尊敬である。
    というわけで、2018年の目標はマイルーティーンを持つこと。
    まずは10年メモの一年度目を完成させよう、ということと、もうひとつはここ!ここに言葉を書くことをやります。今年こそは。もう何度も思っている気がするけれど。やる!やるぞー。

  • 思い出の打率

    家で両親のことをパパ・ママと呼ぶ。
    外で会話に登場するときはお父さん・お母さん、更にかしこまって父・母となる。離れて暮らす今では、自分の口が「パパ」「ママ」と発する機会が圧倒的に減った。そんなことを考えて、大人になったんだなと寂しいような誇らしいような気持ちになる。しかし出世魚のように完全に存在を変えていくわけではなく、家に入ればいつでもスタンダードな姿に戻れるというのが家族のおもしろいところだ。

     

    7月の暑い日、夫と一緒に関西の祖母に会いに行った。
    母の母であるおばあちゃんは、昔からとても無邪気でセンスが良くお喋りが得意でチャーミングだ。
    この日も、20年近く前に行ったスペイン旅行の話を「先月行ってきましてん」というテンションで鮮やかに話してくれた。映画のような内容だったが、同じテンションで話される戦争の話はあまりに生活に近く、何かを押し付けられた訳でも無いのに、もっと強く生きなきゃなと私は思った。

    洋裁も得意な祖母は、その日私が着ていたワンピースを褒めてくれた。
    生成に金色の水玉がプリントされた生地で、裾の方にたっぷりギャザーが入っている。ここ数年落ち着いた色とデザインを好んで着ていたけれど「もっと可愛い!って感じが着たい」「揺れる服が着たい」と衝動的に夏のセールで買ったものだ。30代にしては可愛い過ぎるのかな?と思っていたのだったが「こんな形でギャザーが倍くらい入ったのん着てたわぁ、60歳のころ」と祖母。マジか!!あと30年はバンバン揺らしていこう。

    夫は祖母の関西弁が気に入った様で、自分にも真似できないかと話しながら帰った。
    阪急電車から見えるはブルーとグリーン。私の記憶に馴染んだ夏の風景だった。

     

    私達が帰った後も祖母はよろこんでいたと、あとで母からメールが届いた。
    夫も度々「最近で一番の大ヒット」とその日の会話を話題に出す。会話が出来たことが嬉しかったと言う。それは私の祖母と話せたという意味ではなく、「通じ合った」という確信のことだろう。
    こんなに100パーセントの出来事はなかなか無い。
    本当によかった。

     

    『かわいい夫』(山崎ナオコーラ/夏葉社)を読んだ。
    家族の生活はかけがえがなく、こうやって言葉に残すのはいいことだと純粋に思った。真面目で真っ直ぐな山崎さんの、家族へ向ける視線がとても熱いエッセイ。まだ夏は中盤だけれど、きっとこの夏いちばんの一冊だ!と感じている。この本に記されているような些細な出来事や会話、小さな後悔を、私は全部ぜんぶ見逃しているのではないだろうか。見逃している限り、もう新しい思い出は持てないのではないか。
    思い出が生まれる打率は年を重ねるにつれ下がるような気がしていたけれど、祖母のようにいつまでもドラマを生める人でありたい。

  • 私と私の信用取引

    ちいさいころ、夫はうさぎのぬいぐるみをとても大事にしていた。らしい。
    写真を見ると、(これ、うさぎ…?)と思うほど愛し倒された姿で手に握られている。
    出かけるときも寝るときも一緒だった。そんな相棒と夫は、保育園へ通い出す直前にお別れをした。誰に相談する事も誰に宣言する事もなく、ひっそりと置き去りにして。(こまかい内容は違ってるかもだけど)
    男の子とうさぎは、その時なにを話したのだろう?
    「おれ、明日から一人でがんばるわ」とか話したのかな。胸があつい。

     

    私はこのエピソードが大好きだ。
    昨年(2016年)出版した絵本『さがそ!ちくちくぬいぬい』に登場する、うさぎのぬいぐるみの“ひげうさちゃん”と男の子の“ボクちゃん”。ボクちゃんの大事なボールを探してひげうさちゃんが一人で旅に出るお話は、このエピソードがベースになっている。
    ひげうさちゃんは行く先々で新しい出会いをし、素敵な友達をたくさん作ってボクちゃんの元へ帰ってくる。
    突如置き去りにされた夫のうさぎはきっとビックリしたと思うけれど、初めてぬいぐるみとして独立して世界に立ち、たのしい冒険をしただろう。という私なりの物語を込めた。

     

    村上春樹さんと川上未映子さんの『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読んだ。
    村上さんが語り手、川上さんが訊き手となり、主に村上さんの創作についてを、井戸に潜るかのごとく深く解き明かした一冊。川上さんの探究心が凄まじく、その熱量と鋭さに興奮してしまう。川上さんこそが、村上さんの小説に登場する“パッと手を引いて僕をどこかへ導く女性”そのものだと感じた。
    その中で、「村上春樹と読者は信用取引が成立している」と語る内容が面白かった。

     

    「一生懸命時間をかけて、丹精込めて僕が書いたものです。決して変なものではありませんから、どうかこのまま受け取って下さい」って僕が言ったら、「はい、わかりました」と受け取ってくれる人が世の中にある程度の数いて…(134頁引用)

     

    私は自分を信じるのが苦手だ。
    一人で創作しているとなんだか世間一般に置いてかれている気がして、周期的にクヨクヨする。
    何度もおなじ場所に出来るニキビみたいに、クヨクヨは時期が来るとヒョコと顔を出し「君ってあれもこれも出来ないよね!」と言ってくるのだ。お節介なやつである。

     

    私「決して変なものではありませんから、どうかこのまま受け取って下さい」
    私「はい、わかりました」

     

     

    まさに前述引用のような村上読者の私は、2月に発売した『騎士団長殺し』も発売日(の前日の店着日)を指折り数えて待ち、読み終えた今また次の長編をたのしみにしている。この『騎士団長殺し』も”信じるか”について描かれた部分が光り輝いて感じた。

     

    たまに蓋を空けて顔を出すクヨクヨ。
    私は実のところ、このクヨクヨに愛着を持っている事に気が付いている。
    「出て行ってくれればなぁ」と思いつつ「人目に触れると非難されるからさ。中に隠れときなよ」と、居場所を作ってあげているのだ。その繰り返し。
    こういう存在って、誰にでも1つや2つはあるのだろうか?
    私には100個くらいある気がする。
    そういうやつらを今、1つずつ外に出し旅立たせることをしていこうと思う。
    男の子がうさぎと別れたように。(彼ほどひっそりとは出来ないけれど。)

     

    塞き止めていた川の支流に水を流す。
    人生ってそういう感じで広がっていくのかな、それって楽しいかも。と感じ始めた31歳です。
    遅いですかね?

  • 盤上の星

    涼しく感じる時間が増え、夕飯に火を使っても汗をダラダラかかなくなった。そうなると夕飯前にさっさとおふろを済ませ、寝るまでの時間をダラダラ過ごす楽しみが増える。夏の昼がすきだけど、秋の夜もいいな。

     

    暑さの残る夜、テレビでマイケル・ジャクソンのライブ映像が流れた。音楽やMVはやっぱりかっこいい。研究熱心で進化を続ける努力はすごい。その原動力は一体何だったのだろう。舞台上のスターを見て失神する熱心なファンもすごい。大人になってからミュージシャンや俳優の誰かに夢中になることが無くなったので、少しさみしい。そして羨ましい…これからの人生、何かに失神するほど夢中になれるのかしら、クールな私。ダラダラごろごろ。夏の夜。

     

    失神するほどでは無いけれど、ここ数年将棋にとても興味がある。まだ対局は出来ないので詰め将棋で勉強中。最近棋譜を読めるようになったので名人の棋譜を並べてみると、いろいろな発見があることがわかった。対局の中継を見てふむふむと楽しめるようになりたい。今まだ持っていない力を身につけたいと思うのは、強くなりたいということかもしれない。

     

    以前から読みたいと思っていた『聖の青春』(大崎善生/講談社文庫)を読んだ。重い病を抱えながら名人を目指し続けた棋士・村山聖さんのノンフィクション。病の苦しみや将棋界の厳しさも多く描かれているけれど、周囲の人たちにとても愛されている姿が特に印象的な一冊。私も彼に魅了され、久しぶりに寝る間も惜しんで読んでしまった。
    聖が人を魅了するのは、自分がどこへ進んでいるのかを常にしっかり把握して生きているからだと思う。目は一点を見つめ、身体はグイと前に出ている。きっと拳は強く握られている。カッコいいって強いってそういうことなんだ、と痛感する。自分はどうだろうと考えると目が泳いでしまった。起き上がらなくては。
    失神するタイプではない。けれど、静かに憧れ焦がれる。
    歌わないし踊らないけど、私にとってのスター。
    この夏出会った盤上の星の話。

  • 手紙

    なかなか会うことができない友人たちと文通をしている。
    かわいい切手の合わせに頬が緩む。最近のできごと、ささやかな悩み、なにげのない言葉、ちいさなプレゼント。わざわざ郵便配達人がここへ届けたのだと思うと、ただならぬ感じがする。あなただけへ綴る言葉。私だけへ綴られた言葉。互いに「届いた」と感じること、なんて素晴らしいのだろう。私たちってすごいことできちゃうね!と、強くなった気分に。
    『風の歌を聴け』を読んだ。
    私は村上春樹さんが大すきだ。出版されている書籍はほとんど読んでいるなかで、いちばん読み返しているのはこの『風の歌を聴け』だと思う。主人公と著者と同じ29歳になったら改めて読もうと決めていた。「僕」が故郷で過ごした夏の記憶“青春”が、鼻歌のように流れる短い小説。「僕」は自分で考え、自分で決め、自分で選び、自分で進め、自分で変える。そんな「僕」と、故郷の人々。うまくやっていたはずなのに、時が流れるとどうしてこうも違ってしまうのか?小さな世界が分かれていく物語。
    “青春”は眩しいような時間のことではなく、カチンと日常が弾ける瞬間のことなのかもしれない。「もう二度と戻ることは無い」と理解する一瞬のこと。
    きっと、あの瞬間がいちばん輝いているのだと思う。
    カチン、キラキラ。
    友人の手紙で知る、内面の変化や日々の環境の違いはとても楽しくおもしろい。私たちは言葉を使えば、過去へ戻ることや遠い世界へも行くことができる。小説や手紙に乗せて届けることだってできる。『風の歌を聴け』を読むたび、変化する瞬間の孤独なカチンと己を奮い立たせるキラキラを思う。それは友人からの手紙のようで、だから何度も何度も読み返したくなるのかもしれない。
    カチンもキラキラも、見ているよ。だから大丈夫だよ、と。

  • 出会ってしまった

    すきな小説家の長編作品は全部読んでしまった。けれど、ズシリと深く長い物語を読みたい。その一冊はいつか読もうと、しばらく本棚に入れたままになっていた。
    カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだ。私は出会ってしまった。
    今年の夏はそれだけで満たされキラキラと輝いた。静謐。使い慣れないこんな言葉がふと浮かんでくるほど静かで美しい物語とは裏腹に、私の心は踊り出したいほどはしゃいでいた。きっと、この世界はどこかにある。それどころか、遠い昔に訪れたことがある。記憶が蘇るような心地がした。
    少し不思議な設定が、当たり前のように存在する。そんな小説が大すきだ。SFほどの奇の衒いも、ファンタジーほどのかわいさも、ミステリーほどの陰も無い。ただそっと、違和感が漂う世界。それは私たちの日常にほど近い気がする。成り立ってはいるが、完全ではない。
    この本を読んでいる最中、長崎へ連れて行ってもらった。飛行機で福岡へ行き、車で長崎へ。行く先々で、そこに暮らす知人と合流しおいしいものをたくさん食べた。食事をしていると、大きな自然に触れている感覚がした。こういう感覚が日常では少なかったことに気が付く。流れる時間の速度、広がる景色、過去を残した街並。やはり静謐という言葉を連想した。
    帰りの飛行機で私たちはぐっすり眠った。日常へ戻ると、旅の荷物を持ったまま人混みのなか行列に並びカレーライスを食べた。隣の会話が気になった。自然は感じなかった。時間が進んでいく。けれど、カレーライスは美味しくて元気が出た。そして本の続きを開いたとき、静謐な時間が戻ったことに安心した。ときどき本棚から出してはクンクン確かめ、また旅の記憶を閉じ込める。まるでラブレターのように。
    残暑の季節に『日の名残り』を読んだ。
    旅の目的地に向け車も時間も進んでいるのに、全て過去の回想で描かれている。主人公の執事は、今を生きながら過去に立っていた。彼がある事に気が付き気持ちが未来へ向く瞬間、描写は進行形に変わる。その仕掛けは一瞬のできごとだけれど、すべてが変わったことがわかる。
    出会ってしまった。
    こんな出会いは日常に潜んでいる。
    出会ってしまった。私はこれまでとは違う。過去よりも未来が大きくなる瞬間。
    そんな瞬間のことを『わたしを離さないで』のキャシーは、「わたしは必死で自分を抑えました。そうしなければ、どうしようもなく笑い転げたり、小さい子供のように歩道を飛び跳ねたりしそうでしたから。」と言っていた。トミーは「突然、すべての雲が吹き払われ、あとに楽しさと笑いだけが残った」と。
    土屋政雄さんの日本語訳が格別に美しい。そんな世界に出会ってしまった。

  • ジュージュー

    ある日の友人は、亡き名馬の伝説の走りを動画サイトで見ることにはまっていた。食事をしながらそんな話をしていると、彼女は悲しそうに言うのだ。「私は大人になったから、もうこの世には居ないもののことを調べられるようになったけれど、知れば知るほど減っていくんだ。それが寂しいよ。」と。
    よしもとばななの「ジュージュー」を読んだ。
    私は15歳で「ムーンライト・シャドウ」を読んで読書が大すきになった。日常の些細なことでも、言葉で表現し物語に乗せると美しくなる。10代の頃はばななさんの小説に夢中だった。そこに暮らす人々は、死んでしまった人に毎日語りかけながら、不器用にも一生懸命にそれぞれの日常を送る。得ることと失うこと、存在と消失を日常的に感じている彼らは、互いに同じ感覚を持っていることに共鳴している。小さいけれど完璧な集合体を連想した。宇宙とか、箱庭とか、家族とか。
    「ムーンライト・シャドウ」では“自分は負けてしまうかもしれない”と生まれて初めて思う場面、「ジュージュー」では“なにかが初めて丸になったような感覚”になる場面がすき。知っている、けれど言葉にはできなかった。そういう感覚が、安心に変わる瞬間。
    「ジュージュー」でも、身近な感覚が美しい言葉に置き換えられていることにやっぱり感動した。続きが気になってどんどん読み進めたいのに読めば読むほど左手が軽くなっていくことが寂しくて、友人の言葉を思い出す。「今年もあと少し」という会話が増えるこの季節は、この左手の感触と似ている。彼女は今なににはまっているんだろう?だんだんと寒くなってきたから、ジュージュー焼けるあつあつのハンバーグに誘ってみよう。秋の夜長をたのしむ本も探さなくちゃ。

  • 本棚の姉たち

    幼稚園の合宿の日、母は私にカスミ草を持たせた。薄闇のなかぱちぱちと弾けるように咲くその姿を、今も思い出すことができる。誕生日に父が買ってくれたオルゴールはフタを空けると「Let it be」が流れた。オルゴールはもう無いけれど、大人になった今ビートルズをよく聴く。祖母たちと歩いていて、川に麦わら帽子が飛ばされたこと。兄と畑で大きなカボチャを見たこと。祖父の席に座ると猫が膝に乗ってくれたこと。いつまで覚えていられるのだろう?

    向田邦子「父の詫び状」
    〈彼女が記憶の風景に描く人々は、誰もが彼女に愛されている。気が付けば、自分もその一人であるような心強い気持ちになる。今あるささやかな日常をまっすぐに愛したい。いつでもそう思わせてくれる私の一冊です。〉

    シブカル祭というイベントのために、“誰かとシェアしたい!この文庫本”というテーマで「父の詫び状」を選書した。この本は読むたびに、愛情についてを思う。人を、家族を、日常を、仕事を、こんな風に愛せたら。遠い記憶のきらめきを懐かしむのではなく、そっと広げて見せてくれる。私にとってお姉さんのような存在だ。
    幸田文の「みそっかす」を読んだ。父・露伴との幼い日々の記憶が丁寧に書かれている。お話は決していいものばかりではなく、切なさを持つものをあえて選んでいるよう。自らを“みそっかす”と呼び卑屈な話を続けた末に、「みそっかすなんていうことばは、もう無い方がいい。…そういう扱われかたでいじける児が一人もいなくて済む世の中が、はたしていつ来るものだろうと思うと、私はみそっかすの響に棄てがたい愛を感じる。」と添えられている。この頁を読んだ瞬間にこの本が愛情のかたまりに見え、私の本棚に姉がもうひとり増えた。
    ふたりとも本当に記憶力がいい。私はいろいろなことをすぐに忘れてしまうから、本を読んで、お花を飾り、音楽を聴かなくちゃならないなと思う。

  • 夏のアイロン

    あついあついかたまりを、スーっと滑らせる。布があたらしい表情を見せる。誤って深いシワを刻んでしまう。あーん、へたくそ。永遠にマスター出来そうにないアイロンがけが大すきだ。コットンをぎゅっと織った服がすきなので、夏はたのしい予定の数だけアイロンをかける回数が増える。扇風機は欠かせない。
    ドキュメンタリー映画『ドストエフスキーと愛に生きる』を観た。ドストエフスキーの作品をドイツ語翻訳している翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの記録。スヴェトラーナさんは翻訳と生活の関係をとても大切にしている。丁寧な食事を作り、家族を愛し、アイロンをかける。テキストとテキスタイルは、おなじラテン語の“織る”が語源なのだそう。文学はことばの織物だと語りアイロンをかける姿が、とりわけ美しく印象的だった。
    『ねじまき鳥クロニクル』の主人公・岡田亨は、心を落ち着かせるためにシャツにアイロンをかける。その行程は12に定められている。襟(表)にはじまり、左袖・カフで終えるのが岡田式。そうだ、と思い書棚から出した『ku:nel』46号に「白いシャツにアイロンをかける」という特集が載っていた。やはり12行程で説明されている。前立てにはじまり、襟(表)で終えるのがクーネル式。私はいつも前身頃(左)にはじまり、左袖・カフで終える。
    梅雨が明けた。今年の梅雨は友人と散歩をした。彼女は道に咲くピンク色の紫陽花を見て、「私は青い紫陽花がすきなんだ。」とつぶやいた。そこに無い物の話をすることが、とても素敵だと感じた。それから街で青色の紫陽花を見つけるたびに、そこに居ない彼女を想った。
    梅雨明けからお盆に入るまでの数週間が、私は一年でいちばんすきだ。この時期はよく締め切りが重なり慌ただしいせいか、さらに愛おしさが増す。今年はなにかたのしい思い出をつくりたい。あついあつい日差しに押さえつけられると、このままぺちゃんこになって地面の一部になってしてしまうのではないか?これは汗ではなく溶けているのではないか?と自分が消えることを想像する。夏には到底敵わない、という気持ちになる。もしかすると夏の太陽は、そうして私の織り目を正しているのかもしれない。
    一年近く、思っていることをことばに出来なかった。どのことばにも違和感を感じた。なんだかそれはとても不健全で、生活のことをよく考えるようになった。生きることと活きること。私にとってそのひとつは、ことばを探すことなのかもしれないと気が付いた。続く。続け。ゆっくり続け、とそう思う。

  • くだらない狩りとにげだした獲物

    昨年大阪で個展をしました。
    『くだらない狩りとにげだした獲物』という名前の展覧会。
    人間はあらゆることに意味を求め、成果を得るために努力をする。それなのに、必死になって得たものを簡単に忘れてしまう。不毛にも思える狩りをつづける人間たち・・・しかし目線を移すと、忘れられ解放された知識や記憶や名声は、外の世界でベロを出しているのかもしれない。ほころびはただの穴ではなく違う世界へ繋がる抜け穴で、彼らが隙を狙って逃げ出しているのだとしたら・・・。そう思うと、不毛なことも愛おしく感じる。
    一番すきな映画は『きょうのできごと』です。(行定勲監督/2004年)
    大学生たちが集う夜とその周辺で起こる出来事を描く、たった一日だけの話。特になにも起こらないが、とてもたのしそうに見える。しかし登場人物の全員がそれぞれに小さな孤独を抱えていて、どうしても他人と分かち合うことが出来ない感情を心のなかに秘めている。伝えたいのに伝えられない。「うまく言われへんけど」のひと言が切ない距離を生む。それでも私は、彼らのこの一日を何度羨ましいと思ったかわからない。美しい映画です。
    原作は柴崎友香さんの同名の小説。そしてつい先日出た『文藝』に『きょうのできごと、十年後』という作品が掲載されていると知り、本当に書店へ走りました!私が大好きな学生たちは32歳になっていた。私が知らなかっただけで、彼らも日々を重ねて10年間を過ごして来ていたんだ。あれから何度も辛い想いをしたであろうことが窺える。そう思うと、10年前のあの一日だけを見て単純に「羨ましい」と思っていたことを申し訳なく感じた。そんなもの、私にだって10年に一日くらいは他人が羨む日があるはずだ。彼らと私は何も違わないんだと思った。“見えないもの”はいつも“見えるもの”の陰に隠れているが、確実に存在している。「完全」が“見えるもの”で満ちることならば、「不完全」は“見えないもの”を感じている状態なのかもしれない。そう思うと、不完全の方が魅力的に感じる。
    最近は言葉を使って物語を作っています。完成はまだまだ先の予定ですが、大すきな言葉の制作はとてもおもしろいです。布と糸を使って作品を作ることが多いからか、それ以外の依頼を頂くとき「本業じゃなくてごめんね」と言われる。私は、世界がよくなるといいなぁと思っている。地球とか宇宙とか社会とかではなく、個々の世界が。「うまく言われへんけど」と飲み込んだもの、逃げ出すことが出来なかったものがいる世界。誰もが抱えているそういう世界がよくなるといい。そのために私に出来ることが本業だ、と言える様に。
    28歳になりました。

  • 日々のだいたいのこと

    先が読めない、のは、楽しい。
    たとえば小説を呼んでいて、これはハッピーエンドだろうか?謎は解明されるのだろうか?とわからないからこそ手が進む。反対に定番のオチがあるからこそ安心して楽しめる場合もあるけれど。日々のだいたいのことは先が読めないですね。それは日々のだいたいのことが新しいことだから?
    同じ条件で同じことをしたり、余裕綽々で定番のオチに持っていくのは至難の技だ。だからこそ、先がどうなるかわからない状況を楽しむ姿は魅力的で、自分もそうありたい。
    是枝裕和監督の作品を観ると、いつもそう思う。映画のそこここに漂う、即興のような生の空気に、ゾっとしたり、懐かしく感じたり。(是枝監督はもともとドキュメンタリー番組の演出家だそう。『そして父になる』はやく観たい。)その場の空気や天気や匂い、居合わせた人、その背景にいる人々。そんなすべてが符合する瞬間を楽しんでいるようで、とてもかっこいい。自分以外の物事に可能性を抱く、それはとても強いことだと思うのです。
    先日発売された『SAVVY』10月号の企画ページに参加した。タイトルは「布に絵を描くように刺しゅうをする神尾茉利さん ちょっとラクガキしにきませんかと誘ってみた」。完成の姿は決めずに、その場で布を選び、糸を選び、思いつくままに刺繍をする。その瞬間瞬間を、まさにドキュメンタリーのように写真におさめる。そんな企画。私自身まったく先が読めず、緊張とわくわくでパンパン!背中にいっぱい汗をかきました。
    この夏は『暮しの手帖』の編集部・営業部の方、女の子4人で岡山へ。宮脇書店総社店でワークショップをしました。ワークショップではいつも、参加されるほとんどの方は刺繍初挑戦。私は「とにかくやってみましょう!」と背中を押す係を目指しています。(アキを海に突き落とす夏ばっぱみたいに(‘ jjj ‘ )/)
    飛び込みたいけど飛び込めずにいた人が、思い切って飛び込んだときの輝きは凄い。その姿に憧れて、私も何か新しいことをしたいと自分を重ねています。
    新しいことに挑む、先は読めない。
    でもこの人となら、この場所でなら、この時なら、と予感を抱く。
    そんな連鎖が「日々のだいたいのこと」を彩るのなら・・・。
    『SAVVY』がこんなにも実験的な企画を誌面で行うのは初めてとのこと。そして長い歴史を持つ『暮しの手帖』がイベントを企画するのも初めてのことでした。ふたつの雑誌を作るたくさんの人がこの夏に抱いた予感のなかに、私が含まれていたことを光栄に思う。
    シーンを変える暗転みたいな雨が降った。
    新しい季節がやってきます。

  • ビギナーズ

    「時が経つのははやい」なんて、大人みたいな台詞を平気で言うようになった。
    もう7月後半ですね。私はこの力強い季節が大すきです。

    去年の夏は2013年のカレンダーのお仕事をしていました。先日実家に帰ると、リビングに飾られたそのカレンダーが夏のページに。「7月・8月」は鳥たちが青い空をスイスイ飛んでいるビジュアルです。本物の夏の空を背景に撮影しました。カレンダーチームの皆さんと一緒に過ごした暑い暑い日々を、きっと夏が来るたびに思い出すと思う。(カレンダーはworkページに掲載しています)
    同時に「紙刺繍のたのしび」「ひみつのステッチ」という2冊の書籍の出版準備をしたり、ファッションブランド「あちゃちゅむ」とコラボ商品を作ったり、新しいお仕事にたくさん挑戦した夏でした。
    こうやって広告、書籍、ファッションと、いろんな世界の方とお仕事をさせてもらっています。何をするにも新参者でいつまでたっても慣れないけれど、常に新鮮で緊張感があることを楽しんでいる自分がいる。

    『人生はビギナーズ!』という映画を観ました。残りの人生を偽りなく生きると決めた父と、臆病ゆえに孤独から抜け出せない息子の話。新しい世界に飛び込み「ビギナーズ」として生き抜くお父さんの勇気が、残された息子の生き方を少しずつ変えていく。なんだかジワジワと残る映画でした。(息子役はユアン・マクレガー!渋くなっててびっくり。マイク・ミルズ監督のグラフィカルな映像もおもしろい。)
    村上春樹さんの3年間のヨーロッパ生活を記した『遠い太鼓』の文庫化に際して書き加えられたあとがきには、“数年前だけど、すでにあのころは若かったと思う”といったことが書かれている。少し前のことを思い返して恥ずかしく感じたり、ばかばかしく感じたり。歳を重ねるたびにそう思えればいいな、と思う。(ヨーロッパで過ごした3年の間に『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』が出版され、37歳の村上さんは40歳になる。そして超有名人気小説家になる。その心の揺らぎはとても人間らしく切ない。)
    高校生のころは、英単語の「last」の訳に「最後の」と「最新の」があることをよく理解できなかった。それは真逆のようだから。でも今はわかる。いつでも最後が最新でありたい。

    強い日差しに汗をかいていると、自分がどんどん溶けていって、中から新しい何かが出てくる気がする。
    夏はそんな予感がする。

  • すきなことばはなに?

    私は「すき」と「おいしい」です。
    「おいしい」は食べることが大すきだから。「おいしい」って言う瞬間は、脳内でネオンのように4文字がピカピカ光る。すべてが吹っ飛んでいきます。けどそれ以上に“すきな人がすきなことについて話すのを聞く”のが大すきです。自分が今なにをすきなのか、ちゃんと知っている人はかっこいい。「すきだなぁ」とか、「すきだ!」とか、「あぁ・・・すきかも」とか。ひと言に「すき」と言っても印象はさまざま。うれしそうにニコニコ話す顔も、照れながらモゴモゴ話す顔も、いつまでも飽きずに眺めていられます。なにを、どんなふうにすきなのか。それを知るだけで、その人が大事にしていることが少しわかる気がする。そこに自分と共通点があると心強くも感じます。
    『暮しの手帖』2013年初夏号のために作品を作りました。今や「すき」を大きくはみ出している私の制作について、8ページも特集をしてもらいました。撮影までの数ヶ月は、編集部の方々ととても丁寧な作業をくり返しました。(余談ですが、丁寧というのはとても時間と気持ちと体力の要ることですね。私が垣間見た『暮しの手帖』の制作現場はすべてにおいて丁寧な気配りがされていて、より一層共感しました。)そして暮しの手帖社企画による掲載作品の展示や手芸教室が、この梅雨のあいだ東京と岡山の書店を巡回しています。私も7月に岡山へ行きます。振り返ると、今年はずいぶんと長い時間を『暮しの手帖』と過ごしています。
    現在の編集長・松浦弥太郎さんのエッセイ『本業失格』が私は大すきです。本いっぱいに松浦さんの「すき」が満ちていて、その姿を見る私の目はハートだったはず。両手を大きく広げて2段飛ばしで階段を駆け上がっていく少年みたい!こんなふうに自分のすきなことを話せる大人がいるのか!と。書棚から本を選びページを開くと、自分自身にぴったりくる大人の姿が見つかることに気が付く。現実ではなかなか出会えないのに。エッセイは主人公が現実に生きているんだから、それって凄いですよね。今ごろ『暮しの手帖』のなかの私も、日常では出会えない方々に出会っているのでしょう。やっぱり、本はたのしい。読むのも作るのも。
    ホーム画面の写真をころころと変える予定です。写真を撮る習慣が無いのですが、最近は思い出したときに撮っています。後から見ると「なんでこんなものを。悪趣味だなぁ。」と思うものも多々。でも確かにすきだと思ったんです。必ずしも幸福に満ちているわけではなく、時にとても残酷なものをすきになったりもしますよね。そういう話を聞くのも大すき。すきな人のすきなことだから。

  • はじめに

    ゆっくりじっくり作りつづけていたホームページが完成しました。
    デザインはSKKYの角谷さんに。いつもお仕事でお世話になっている角谷さん。日常でも、角谷さんのお陰で珈琲を飲める様になったり、頑固でひねくれた私を見透かしてくれたり、とても頼りにしています。抽象的な希望にも「まかせろ!」と。私の曖昧な器に、角谷さんが絵付けをしてくれました。さあ、何を入れよう?
    制作はBOOKLOREの中島さんに。無茶な希望を言ったときのにやにやしながら天を仰ぐ姿が見たくて、打ち合わせはいつもたのしみでした。聡明なキツネのような顔の中島さん。捕らえ所のない中島さん。仕事が速い中島さん。今日もどこかでにやにやしてるのかな。

    きっと18歳で誰しもが何かを決断する。私は美術をはじめ今年で10年です。
    ふと、歩み出す向きを少しだけ変えてみる。そのまままっすぐ進むと、最初の道はどんどん遠くへ離れてゆく。2本の線の距離は開き、2つの点はもう見えないほど遠い。はじめは少しの差だったのに。頭ではわかるけれどいつもそれが不思議で仕方ない。一歩を決めるだけでとても遠くへ行けるなんて。(いずれもう1つの点のことは忘れてしまう。そしてときどき思い出して遠い目をする。)
    言葉を扱うことには少し戸惑いがあったけれど、ここにnoteというページを作ってもらいました。私の文章を書こうと思っています。この一歩で何処へ行けるのだろう。あたらしい点が動き出しました。
    どうぞよろしくお願いします。