• 無敵の子守唄

     年に一度が無理でも、二年に一度は京都を訪れたい。なぜだろう。
     美しい、というものや、変わらない、ということを、肌身で感じたくなるのかもしれないし、ただ単純に、真っ直ぐに伸びる道路や広くて気持ちのいい鴨川、美味しいごはん、夏の暑さ、冬の寒さが恋しくなるだけかもしれない。

     

     今夏、私が出版した『刺繍小説』のなかで、小説家のいしいしんじさんとお会いした。

     

     いしいさんは現在京都に住んでいて、その生活のエッセイも多く書かれている。私の子どもがまだ赤ちゃんなので、京都ではなく、お仕事で東京へ出張される際に時間を作って頂きお会いした。

     

     私は学生のころ、とても熱心にいしいさんの小説を読んだ。いしいさんの作品は、「小説」と呼ぶよりも「物語」と呼ぶほうが私にはぴったりで、言葉と布という違いはあれど、その「物語」は私が作りたいものにとても近かったのだ。まだただの美大生でしかない私には「物語」を生み出すいしいさんがまぶしくて、憧れていたことをよく覚えている。

     

     『刺繍小説』は、〈刺繍描写のある小説〉を紹介するとともに、その〈言葉で描かれた刺繍〉を私なりに実体化する……という試みの書籍で、いしいさんの『トリツカレ男』に描かれる刺繍も、私なりに空想を巡らせ刺繍にさせてもらった。

     

     第三者が勝手な解釈を提示することについて小説の作者に怒られるのではないか……と少し緊張していたけれど、いしいさんはとても優しく、同時に、関西人らしい鋭さもあり(私も関西出身)、安心とともにヤル気漲る時間になった。
     たのしいお喋りは、いつまででも聞いていられそうなほど耳心地がよく、私は「詩吟みたいだ」と思った。

     

     お会いすることが決まってすぐ、まだ読めていないいしいさんの作品を読みたいと思い、京都を舞台に描かれる『悪声』を読んだ。
     タイトルも、装丁も、私が持ついしいさんの「物語」の印象とまったく違ったことが選んだ理由だ。

     

     読み進めると、それは「物語」ではなく「うた」だった。
     聴くひとにだけ音楽が響くように、『悪声』の浮遊するような読書は読まなければ感じられない。これぞ言葉の興奮、という体験だった。描かれる言葉には、意味の前に音があり、音は景色を運んできて、私に色を見せた。『悪声』を読んでいるあいだは、苔の緑色がベールのように脳をくるんで、ぼんやりする。分厚く長い本だけれど心地よく、悪いことはなにも起こらないと確信を持てた。
     こんなにも無敵な時間って、日常にあるだろうか?

     

     いしいさんとお話した時間と、『悪声』を読む時間。この2つの時間はとても似ていた。そういえば『トリツカレ男』にも同じ安心感がある。『ぶらんこ乗り』にも。
     そうか、いしいさんの小説は「物語」ではなくて「子守唄」なのかもしれない。
     いしいさんの言葉を前にすると、だれでも安心した子どもになれるんだ。

     

     玄関を出た瞬間に豚まんになってしまいそうな真夏の今、また京都を訪れたい気持ちがむくむくと膨らんでいる。
     目を閉じて『悪声』の「なにか」がそっと置かれた苔の絨毯に想像の手で触れると、ひんやりと気持ちがいい。

     

     

    ・・2019.8・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    『刺繍小説』(神尾茉利/扶桑社)
    いしいしんじさんとお会いしたお話は『刺繍小説』の「〈トリツカレ男〉と〈シンパイ女〉」でお読み頂けるので、ぜひ。
    『悪声』(いしいしんじ/文藝春秋・文春文庫)