• 困惑ボロネーゼ

     長く暮らしていても、たまに地下鉄の乗り換えや出口の選択に困惑するわけだけど、春はとりわけ困惑人口が増える。きっと新生活のために上京したトーキョーニューカマーなのだなと、いつも心の中でエールを送る。彼らは夏になると、みんなスイスイと乗り換えられるようになる。慣れると案内も親切だし、ほんと、便利です。東京の地下鉄。

     

     そんな困惑を味わえるのが旅の醍醐味だよなぁと思い出させてくれたのは、村上春樹さんの紀行文『ラオスにいったい何があるというんですか?』だ。
     旅慣れていそうな村上さんでさえ、突然の雨にぬれて迷子になったり、入ったバーでお酒が出て来なかったり、困惑体験をするのだそう。「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」と断言されたら、安心しちゃう。心配性な私も、それでもいいなら一人旅にでも出ようかしら、という気分になった。(気分だけ)

     

     旅で思い出すのが、新婚旅行で乗ったベルリン/プラハを結ぶ鉄道だ。『世界の車窓から』を夢想して、「ぜったいに鉄道に乗りたい!食堂車!食堂車!食堂車!!!」と鼻息荒く連呼した甲斐あって旅程に組み込まれたのだけれど、いざ食堂車に乗り込んでみると、イメージが違った。ぜんぜん『世界の車窓から』じゃない。これじゃあイシマルケンジロウの声も聞こえない。
     何がちがうって、まず食事をしている人がぜんぜんいない。みんな空っぽのコーヒーカップで座席を陣取って、PCを広げたり、タブレットで動画を見たり、居眠りしたりしている。つまり、たぶん、指定席を取らずにここに落ち着いているのだ。そんな裏技が…。そしてその座席は自分で勝ち取らなければならない。ウェイターが親切に「あちらへどうぞ」なんて言ってくれないし、お客の方とて「順番に並びましょうね」なんて雰囲気は無い。サービス大国でぬくぬく暮らすにんげんには厳しいなぁ。一生懸命目を光らせて、空いた瞬間に座るぞと息巻いてみたけれど難しく…立ち往生していたら、親切なファミリーが「君たちずっと待ってるよね!ここ空いたよ!」と笑顔で指し示してくれて無事に座れたのでした。感謝。私も困った人がいたら助けたい。ペイフォワード。
     そんな念願の食堂車で食べた至ってふつうなボロネーゼの味と、受けた親切はきっと一生忘れない。旅っていいよねえ。

     

    2018.4